Aviciiに手向けの花を

4月20日に世界的DJのAviciiが自殺によって亡くなった。

私はそのニュースをツイッターで知った。友達と散々飲んで深夜3時に都内をタクシーで帰っているところで、BBCのネットニュースは私の酔いを一気に醒ました。

 

これから先Aviciiの新しい曲を聴くことはできない。DJ 活動に復帰する可能性ももうない。Aviciiがターンテーブルを回すあの空間に二度と身を投じることはできない。

 

私はタクシーに乗りながら涙が溢れ、ボロボロ泣いた。私はAviciiの曲に生かされた1人だった。

 

私がAviciiの曲に出会ったのはそれほど昔ではない。5年程前、私は仕事で悩みを抱え抑鬱状態と診断されて服薬していた。自分の存在価値など無く、どうやって生きればいいのか分からない。人生はつまらない。真っ暗な日々を過ごしていた。

ある日、動画サイトで「Levels」と「I Could Be The One」のMVを見た。日常から離れて自由を生きることを、彼の作る音楽から感じた。

その後ベルギーの野外音楽フェス「Tomorrowland」の動画を見て、さらに衝撃を受けた。まさにここは、地上の天国。こんなに大勢の人が笑顔で自由に音楽を楽しんでいる。自国の国旗を掲げて肩車されながらナショナリズムを感じている人もいる。DJが絶え間なく流す音楽に合わせて、会場全体が踊る。人々の声が大きな一つの歌声となる。音と光と熱気の非日常空間。クラブとはまた少し違い、爽やかさというか青春を感じさせるような力を感じた。世界にはこんな空間があるのだと初めて知った。

 

その後Aviciiの曲を毎日聴くようになり、私にとって彼の曲は日常の一部となった。嬉しい時も、絶望の中でも、何気ない1日でも、常に私にはAviciiが響いている。私自身がAviciiと同い年ということも、何か通じる部分があった。

 

元来洋楽はよく聴いていたが、ハウスミュージックやクラブミュージックはかつては苦手で、煩いだけだと思っていた。

私はAviciiを知ることでEDMを知ったが、EDMは要するに「パリピ音楽」である。パーリナイ、アルコール、ドラッグ、セックス…クラブで流すことによりフロアのボルテージを上げ、時と熱気の瞬間を消費していく。有名どころのEDMは大体聴いたし、勿論素晴らしい曲や好きな曲もたくさんある。

 

だが、Aviciiの曲はEDMにありがちな刹那的にテンションを上げるための音楽ではなく、どこか陰鬱で寂しさを感じる中に、「友情」「家族愛」「恋愛」「夢」を始めとした人類の普遍的な光をメロディに乗せる。それはまるで、Aviciiの故郷スウェーデンの長い冬の夜に、わずかな時間昇る輝く太陽のようだ。

EDMという一見華々しい世界で人間臭さを吐露するギャップに、私は強く惹かれた。

暫くして、私はEDMが好きなのではなく、「Avicii」が好きなのだと気づく。

 

Aviciiは2016年5月に初来日を果たし、その年の8月29日イビザ島ウシュアイア公演を最後に、惜しまれつつもDJ 活動を引退した。

 

2017年の11月に日本で2夜限定公開されたドキュメンタリー映画「True Stories」を観に行った。

Avicii、本名Tim berglingはEDMを牽引してきた謂わばパリピの神的な存在だが、本来は内気で、シャイで繊細な心の持ち主なのだという。繁忙すぎるギグを毎夜こなす中で、彼の精神状態は追い詰められていった。

彼の完璧主義な性格も災いして、毎回ギグが始まる直前に多大なプレッシャーと緊張を感じていたという。緊張緩和のためにアルコールを恒常的に摂取していたのが原因で、2013年のマイアミ公演後に急性膵炎を発症。翌年再発予防のため胆嚢を切除したが、さらに虫垂炎や腎臓結石など健康問題に悩まされた。

  

映画を見るまで私は、「引退しないでほしい」「心身ともに回復したらいつかまたDJ 活動に戻ってきてくれるだろう」くらいにしか思っていなかったが、ティムの精神的に追い詰められた姿を見たらそんなことは言えない。映画の中には、ティムがパニック障害の発作を起こして全身震えながら爪を噛むシーンもあった。

 

引退した原因は、他にもある。EDMがジャンルとして確立された頃から、EDM業界はマンモニズムへ傾倒していく。守銭奴が集う業界に彼は嫌気がさしていたという。それは彼の後半のキャリアに当たるアルバムStoryの収録曲「Sunset jesus」からも窺え、「僕の夢は金でできている」「心は折れ、歳をとるまで夢は消え続けていく」「カリフォルニアは一見輝いて見えるが、周りは闘いばかりだ」と記す。

彼は人生最期のインタビューで引退前の当時のことを振り返り、「成功するために成功を求めている感じだったので、もう幸せを感じられなくなっていた」と答えている。

 

映画本編はDJ 活動を引退してストレスフリーになったティムの姿と、「Feeling in good」をバックにして締められる。これがティムの気持ちであれば、やりたいようにやってほしいと私は素直に思った。ティムが1番幸せな人生を歩んでほしい。そして、「Feeling in good」そのものが、今の彼なのだと。そう、思っていた。

 

やりたいことが沢山あるとDJ 活動引退宣言で彼は言っていたし、2017年8月にはEPを出している。映画でもDJ 活動を辞めて前向きに歩んでいる姿が映し出されていた。

 

しかし映画公開の約半年後、彼は自らを殺めて天国へ旅立つ。

 

故郷ストックホルムへの郷愁を曲にしていたのに、何故遠く離れた中東の異国で最期を迎えようと思ったのか。それは誰にも分からない。

何年も前から未発表曲の「HEAVEN」はまるで自分の死を予期していたかのような歌詞である。

彼は死を前にして何を思ったのか。27歳で死んだアーティストが死後入る所を27クラブとよく言う。ティムは28歳でその生涯を閉じたが、若くして成功したアーティストはその前後あたりで壁に当たるのだろうか。恐らくプレッシャーは、常人には分からない凄まじい重さでのしかかっていたことだろう。不幸な人の立場になることはなんとなく想像がつくものだが、成功者の立場になって、物事を見るのは難しい。「Avicii」とはサンスクリット語で「無間地獄」という意味である。彼は1人で地獄のような毎日を彷徨っていたのだろうか。

 

5年前にAviciiに救われた私だったが、ここ1年近くはまた別件でかなり精神的に参っていた。そんな時の彼の死だった。

 

私が勢いあまったことをしなかったのは勿論周りの人の存在が大きいが、人は24時間常に側にいてくれるわけではない。夜にふと襲ってくる絶望と孤独に駆られたとき、側にいてくれたのはAviciiだった。曲を聴き泣きながら帰ることで、私は救われていた。彼の曲は私の思いを汲み取り、切なさや寂しさを爆発させたり、気分がいい時はさらに天上まで高めてカタルシスをはめてくれる。そして絶望した私に生きる勇気を与えてくれた。「意志あるところに道は開ける、どんな夜でもやがて陽が昇る まるで魔法みたいに」

 

人は何かを失って初めて気付くことが多い。ティムが亡くなってから気づいたことだが、私は彼の音楽があったからこそ、地獄のような日々をなんとか生きていた。

彼は文字通り心身を削って、名曲を生み出していた。そんな彼に私が恩返しできるとすれば、それは私なりに生きることなのではないだろうか。平凡にしか生きることはできないかもしれない。幸せになることはできないかもしれない。しかし亡くなったティムに唯一私が手向けられるものは、彼の音楽に生かされた私の命を、無駄にしないこと。それがせめてもの餞であると思う。

皮肉なことだが、ティムの死によって私は「生きなければ」と思うことができた。

 

2016年6月5日、千葉QVCマリンフィールドでの公演が忘れられない。あの日は雲1つない晴天で、湿度の低いカラッとした初夏だった。熱い会場に冷たい風が心地よかったのを覚えている。あの日、かつて私が動画で見た野外音楽フェス「Tomorrowland」の世界がそこにはあった。骨や脳髄まで響く爆音が波のように押し寄せる。キャッチーな音と光と映像に、言葉では名状し難いほどの高揚感と多幸感に包まれた。「ここは本物の天国だ」泣きながら私はそう思った。

 

ティムに弔いの言葉を送りたい。あなたが苦しんだのは無駄ではなかった。流した涙は大きな波紋となり、遠い日本に住む私の元へ届いた。恐らくその波紋を受けたのは私だけではない。世界中数え切れない程の人があなたに救われた。あなたの作った音楽のおかげで私は今も、そしてこれからも生きていける。あなたのファンになれて私は良かった。無間地獄の毎日を過ごす私の側にいてくれてありがとう。私の生活に彩りを与えてくれて、ありがとう。

 

いつかストックホルムへ行ってみたい。ティムが好きだったコカコーラを片手に。

 

感謝を手向けの花として、心からの哀悼の意をAvicii、Tim berglingへ捧ぐ。どうか安らかに。Tim並びにTimに関する全ての人に神のご加護がありますように。

 

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2018年10月1日追記

 

もうすぐ命日から半年が経つ。

この半年は以前にも増してAviciiの曲を聴くようになった。悲しいことに彼はmixなどを除くと2枚のアルバムとアルバム未収録の数枚のシングルでそのクリエイター人生を終えた。

もう新譜を聴くことはできない。

あれからずっと探しているのだ。iTunesで検索しては似たような高揚感をもたらしてくれるDJや曲をずっと探している。

しかしそれは私がAviciiの影を追っているだけで良いDJを探そうなんて最初から思っていないのかもしれない。音楽に私の勝手な思いをぶつけること自体間違っているのだ。暫く全く別ジャンルの音楽を聴いた方がいいのかもしれない。

 

Aviciiの曲の面白さは、そのギャップ性にあると考えている。都会的でお酒を飲んで踊る様式美の音楽に、カントリーを融合した。歌詞は陰陽含めた人間の情緒性を取り入れ、空虚な毎日でも視点を変えれば意外と世界は美しいことを教えてくれた。

 

朝電車に乗り、陽の光が差し込む瞬間

宇宙まで突き抜ける青空

ふと掠める花の香り

雨傘から垂れる雫

水溜りに浮かび上がるネオンの街

雨上がりの原色に輝く夕日

 

美しいものを見たとき、ふと思い出す。

もうAviciiはいないんだ、と。未だに実感が湧かない割には、胸がキュッとなる。

 

現在Aviciiの公式サイトでは、ファンからのコメントを書き込めるようになっている。陳腐で何度も使い古された言い回しだが、ティムは音楽の中で、人々の心の中で生きている。曇天の雲の切れ間から差す一つの光の階段なのだ。

 

最近購入したBluetoothイヤホンを耳につけて私は聴く。寂しいときも美しいものを見るときも、これからできる沢山の思い出も、私はAviciiと共に過ごせたら嬉しい。感謝の気持ちを込めて。